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榊原烋一 【サカスト】 |
9月1日は防災の日、今年は前日が日曜日だったので1日繰り上げて訓練をやった所も多数あったようだが、やはり私たちの年輩だと9月1日のほうがピンと来る。
1923年(大正12年)9月1日午前11時58分、相模湾北部を震源とする巨大地震が関東地方を襲った。地震国日本であれば最近に至るまでそれこそ大地震は数えきれないほどやって来るが、この関東大震災はその規模の大きさ、当時の日本の政治、経済、社会に与えた衝撃の大きさなどから考えても、忘れてはいけない大地震であり、その日を記憶にとどめておくためにこの日が防災の日に定められているのだ。
震度7、規模はマグニチュード7.9という大規模な地震が東京を含む1府6県すなわち東京府(当時は都ではなく東京府と東京市があった。今の大阪、京都と同じ行政組織)横浜市を含む神奈川県、静岡県、千葉県、埼玉県、茨城県、山梨県の広範囲にわたって激甚災害が襲ったのだ。
ちょうど地震が起きたのが各家庭で昼食の支度ないしは昼食中であり、火を使っていたところへ地震が起こったため、一挙に134ヶ所から火災が発生し、その大火災の熱のためにこの日の夜半の気温が46度にまでも達したと記録されている。その後9月5日までに体感余震が936回あったとも言われている。死者、行方不明者合わせて10万5千名、人口に占める被災者は横浜市で93%、東京市部で75%であったと言う。
被害金額は推定55億円、これはその前年の国の一般会計予算が14.7億円だった日本にとっていかに圧倒的な大きな災害であったかが分る。
私はこの3年後に生まれているが、今年で震災後ちょうど85年になるから東京あるいは横浜などでこの大地震を記憶している人びとは既に90歳を越えていることになる。まだ生まれていなかった私であるのにその記憶が鮮明なのは、子どもの頃両親からいやというほどその悲惨な状況を聞かされて育ったからだ。
父は当時浅草に住み、母は神田に住んでいた。この1年後両親は結婚することになるのだが二人とも下町に住んでいたから、生命を取り留めたことだけでも奇跡的と言える。父の話しによればちょうど昼食中だったそうで、ちゃぶ台の上の炒り豆腐が空中に舞上がった後、畳一面に散らばったというし、母親はその晩どこからともなく朝鮮人が井戸に毒を投げ入れているというデマが広がったため、夜警団に加わって竹やりを持って一晩中見張りをしていたという。
特に被害がひどかったのが両国付近で、今の国技館の少し北側に当時軍隊の制服を作っていた被服廠という工場が引っ越して大きな空き地があったため、余震や火災から逃れて来た被災者たちが我先に逃込んで来た。ところがその人たちの持って来た家財道具に火の粉がふりかかってたちまち大火災となり数千人が生命を落とした。また火を逃れた人々が隅田川に飛び込み、折り重なって溺死したという話も聞いたし父が映した写真も見せられた。
両親ともに命だけは助かったということで、私が小学校の頃、この日学校は始業式だけですぐ帰宅できたので、帰るとすぐに両親と一緒に両国へ行き、震災記念堂(ここは現在戦災者の慰霊堂にもなっている)へお詣りをして更に吉原まで歩き、当時吉原は遊廓で、そこの遊女たちは門を閉ざされて外へ逃げられず遊廓内の小さな池に折り重なって倒れていた等の話を父から聞かされ、最後に浅草まで歩いて映画を見、食事をして帰るというのが我が家の年中行事であった。
当時第一次世界大戦終了後で日本は戦勝国となったが、それだけにアメリカ、イギリスとは軍縮問題で関係不調になる、大戦中の貿易黒字が消えて大不況が訪れる、また軍部はロシア革命に便乗してシベリアに大軍を派遣するがこれも失敗に終わり、かえって国内の労働階級が力を得るようになったり、首相が暗殺されたりと、社会情勢が天皇制の存続すら脅かすようになって来た時期にこの大災害が起きた。政府はこれを奇禍として軍部、警察の力を用いて当時の左翼的活動家や労働組合などに徹底的な弾圧を加えて行く。
皮肉なことにこのような社会情勢がしだいに軍部の台頭を許し、あげくの果てが太平洋戦争にまで至るのだが、その結果、敗戦の色が濃くなった1945年3月10日、再び東京の下町はアメリカ軍の大空襲を受け灰燼に帰してしまうという運命を辿る。このときも死者は10万を越えたはずである。
東京の下町が火災に弱いという事実が関東大震災によって証明され、その日よりわずかに22年後、アメリカ空軍の焼夷弾作戦によって再度東京の下町は焼け野原と化してしまい罪なき住民が殺されてしまったのである。
地震は天災であっていまだに人間の知恵では防ぐことが出来ない。したがってもし地震が襲って来たらどうするかという備えは万全にすることが望ましい。そのための防災の日については、その歴史をいつまでも日本人の心の中に伝えて行く必要があるだろう。しかし戦争とは決して天災ではなく、人間の英知をもってすればこれを防ぐことも可能なはずであるし、これを防ぐ努力をすべての人類が願う先頭に日本は立つべきである。
私が小学校時代に父から見せてもらった地震の焼跡の死体の写真、それと東京大空襲の焼死体、さらには広島、長崎の原爆資料館で何回も目に焼きつけられた焼死体、これを思い起こすごとに戦争の愚かさ、防災の重要さについて私にとっての8月、9月は記憶の糸を手繰る時期にもなってくる。
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