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榊原烋一 【サカスト】 |
今日で敗戦からちょうど63年経過した。ということはあの戦争を直接には知らない人々が既に60歳を越えてしまっているということだ。戦後の学校教育では、どういうわけか現代史を重視せずこれを正確に教えてこなかった。また入試等でも現代史に関する問題はまず出題されることがない。というわけで、この年代以下の人は家庭で話題が出ていないかぎりあの忌わしい悲惨な戦争の実態を知らない人が多い。
また、これより年輩が上の人で自分も軍籍の経験がありながら、前線に出た経験のない人は今でも日本は負けるはずはなかったと考えたり、今度やる時には失敗は繰り替えさないぞといまだに意気込んでいる連中もいる。ドイツの元大統領ワイゼッカーの言を借りるならば、過去の歴史を正確に知ろうとしない人は再び過ちを侵すおそれが大きいから、最近の日本人の動向の中に再び国家主義的な動きの見られることは極めて危険だと考える。
この日を迎える3日前、12日の朝刊各紙に太平洋戦争開始のときの首相であった東条英機陸軍大将が、敗戦を迎える数日前に書き残した日記が発見されたとの報道があった。1945年8月15日の時点では彼は既に首相の地位から追い出されてはいたのだが、その内容を今知らされて驚くばかりである。
首相の地位は去ったといえ、政治家として更には陸軍の最高幹部の一員でもあった彼がこんなに戦争の状況を知らずにいたとはまったく愚かしさの限りであるし、このような指揮官のもとで死ななくてもよい命を奪われた多くの日本国民はあらためて身の不運を嘆じないわけには行かないはずだ。
この日記の示す所を引用して意見を述べると、まず8月10日の部分に次のような記述がある。この日は重臣懇談会が総理官邸であり、当時の外相から外交の経過が述べられた日で、もちろんその内容は和平の道をどう進めるかの内容で、天皇もその道を望んでいるので国体の護持だけを条件として降伏する考えが報告された日である。彼はこう書いている。「東亜安定と自存自衛を全うすることは大東亜戦争の目的なり。幾多将兵の犠牲国民の戦争犠牲もこの目的が曲がりなりにも達成せられざるにおいては死にきれず」である。開戦時の首相が、本気でこんな認識でしかなかったということ一つをとっても呆れてものが言えない。
歴史の示すところによれば、満洲支配中の関東軍が中央の命令を無視して事変を勝手に起こし、さらに不拡大を命じた中央政府の意にも沿わず戦線を拡大し、ついには泥沼の中に足を踏み入れた状況で納まりがつかなくなった軍部が、しかたなくあちこちを侵略したのが太平洋戦争の開始となったいきさつすら客観的に把握できなかった人間が、この段階になってさえもこの戦争が東亜安定のためであったと豪語している愚かさは信じられない。
8月11日の日記には次のような記述がある。「新爆弾(原爆)に脅え、ソ連の参戦に腰をぬかし一部条件を付し在りといえども全く『敗戦者なり』との観念に立ちたる無条件降伏を応諾せりとの印象は軍将兵の士気を挫折せしめ、国民の戦闘意思さなきだに逓下(低下)せんとしつつ在る現況に更に拍車を加うる結果となり、軍の統帥指揮上に大なる混乱を惹起し戦闘力において精神的著しく逓下(低下)を見るに至るなきやを恐る」
東条氏自身がこの時点で国民の戦闘意思の低下甚だしいのを知っていながらまだ戦争継続を企てていることも愚かと言うべきしかない。
これより数カ月前の3月23日「義勇奉公隊組織に関する件」が閣議決定されて翌日情報局から発表されている。この日から兵役法とはかかわりなく全国民男女を総動員して防空・防衛・被害復旧・疎開輸送・食糧増産・警防活動などのほか、陣地構築などの軍の作戦行動に対する援助をし、なお「状勢急迫せる場合は武器を執って蹶起する」というものである。加えて15歳から60歳までの男子、17歳以上40歳の女子に国民義勇隊に編入することが定められていた。
義勇隊が編成されても隊員に渡す武器は既にない。当時内閣書記官長であった迫水久常によると、「陸軍省の係官から国民義勇隊に使わせる兵器を展示してあるので閣僚に見て欲しい」と言われ鈴木貫太郎首相以下で見学に行くと、「手榴弾はまずよいとして、銃は単発で筒先からまず火薬を包んだ小さな袋を棒で押し込み、その上から鉄の丸棒を輪切りにした弾丸を棒で押し込んで射撃するもの、それに日本古来の弓が展示してあって、麗々しく射程距離おおむね3、40メートル、通常射手における命中率50%と書いてあり、その他は竹やりと、昔ながらのさすまたであった。」まさに絶望的な一億玉砕戦術の実態はこうだったのだ。
こんな状況下で国民の戦闘意識が向上するはずがないし、陸軍大将である東条氏がこの実態を知らぬはずがないのに、この期におよんでまだ寝言のような日記を書いているとは信じられないことである。そして8月13日無条件降伏決定の日の日記では「もろくも敵の脅威に脅え簡単に手を挙ぐるに至るがごとき国政指導者及び国民の無気魂なりとは夢想だもせざりしところ、これに基礎を起きて戦争指導に当たりたる不明は開戦当時の責任者として深くその責を感じる」とあるが、開戦当時すでに海軍はせいぜい3か月なら持ちこたえられる、と言っていた事実も知らなかったとするならば、いったい当時の軍部の指揮官は何の目算あってあの戦争を起こそうとしていたのか、そのための300万の国民の犠牲はだれのためであったのか。
さらに8月14日の日記では「事ここに至りたる道徳上の責任は死をもっておわび申上ぐる」とあるが、これは道徳上の責任ではなく作戦遂行失敗の責任でなければならないだろうし、続けて「犯罪責任者としていずれ捕えに来るべし」とあることはむしろ本人自身道徳上の責任でなく戦争責任が自分にあることを自認しているようなものだ。更に続けて「その際は日本的な方法によりて応ゆべし。陛下が重臣を敵側に売りたるとのそしりを受けざるごとく又日本人として敵の法廷に立つごときことは日本人として採らざるところ」と書いているが、敗戦と同時に阿南陸軍大臣は切腹自刃、ほかにも37名の陸海軍の将校が見事に自刃していたにもかかわらず、東条氏自身は9月22日まで漫然と生き永らえ、米軍の逮捕部隊が自宅に現れてからやっと自殺を図ったが、それはもっとも日本的でないピストル自殺、しかも頭ではなく腹部を撃つというきわめて疑わしい自殺方法をとったのだ。
敗戦のその日、19歳の男子としてそれこそ間一髪死をまぬがれた【サカスト】筆者としては、このようないい加減な指導者のもとで戦争が行われていたことを63年の間決して忘れることは出来ない。そしてそれだからこそ、現代でも日本を普通の国、すなわち再び戦争の出来る国にしたいと画策している指導者達は、その全員が自分が前線に立つ危険性のまったくない立ち場に位置していることを知りながら号令をかけているのだという事実を思い、彼等の思うような日本が作られれば犠牲となるのは再び庶民でしかない大部分の国民であることをこの日がくるたびに考えて行きたいのだ。
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