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榊原烋一 【サカスト】 |
日本語とは誤解を招きやすい言葉だ。この表題だって二つの意味にとれる。ひとつは映画「靖国」を見たけれども、それほど騒がれるほどのものではなかった、という解釈もできるし、もう一つ、映画「靖国」を見たかったのだがそのチャンスがなかった、とも解釈できる。
今回書くのは後者の方で、実はどうしても見たかったので連休明けの5月7日に朝早くから渋谷の小さな映画館へ向った。第1回の上映は10時30分から、私が到着したのは9時半頃。切符売り場に向うと、何と既に1回目と2回目は満員、今から買えるのは第3回目でそれは午後2時過ぎの上映だ。
一人で数時間を過ごす気もなく、かといって切符を買って一度帰宅してまた出直すということも若い頃であったら当然の行動だっただろうが、もはやそれほどの意欲もなく、ぶらぶらと新宿まで行き、都庁の無料展望台から町を眺めてすごすごと帰宅。
この映画はもともと中国人監督が日本で製作したもので、これを週刊新潮誌が上映前に取り上げたのが昨年12月、その内容は「反日映画『靖国』は日本の助成金750万円で作られた。」と題する見出しだったが、これは週刊誌の常套手段とも言える羊頭狗肉のたぐいで中味は僅か1ページほどの記事だったそうだ。
これを見ていちはやく動いたのが自民党右派議員の一人、稲田明美議員だった。この議員はかねてから自民党内右派議員の団体「伝統と創造の会」の主催者でもある。稲田議員は2月になって会報を通じてこう呼び掛けた。「週刊新潮でも神社新報でもこの助成金の交付が妥当であったかという問題提起があり、伝統と創造の会でもこの問題を取り上げることにしました。」
かくしてこの会は文化庁に対し特別試写の申し入れをすることになる。文化庁から試写をやりたいとの知らせを受けた配給会社は、右派議員だけが対象だという話しを聞いて難色を示し、文化庁と数回の交渉の後、特定の議員だけではなくすべての国会議員を対象とした試写会を開催することとした。
ところがこの試写会開催がマスコミの知る所となり、まず朝日新聞が3月9日付けで大きく報道したために、3月12日の試写会には国会議院や秘書あわせて83人が出席、これが翌日の新聞、テレビでいっせいに報道された。
こうして問題が大きくなって行く中で映画館の側から予想外の動きが出てくる、上映を予定していた東京のいくつかの映画館から突然上映中止の意向が配給会社に伝えられ出した。ちょうど日教組の研究大会を予定していた高輪プリンスホテルが直前になって予約をキャンセルした事件がその前にもあったが、まったくそれと同様の自粛の連鎖が起こっていったのである。事実、ある上映予定館には右翼の街宣車が抗議に訪れたらしいが、このような情勢の中で、東京で上映予定だった4館がすべて上映を中止するに至った。
この事態を新聞各紙はこぞって社説で取り上げたが、その見出しのいくつかをひろって見よう。「朝日新聞・4月2日付、『靖国』上映中止 表現の自由が危うい」「読売新聞・同日付、『靖国』上映中止『表現の自由』を守らねば」「産経新聞・同日付け『靖国』上映中止 論議あるからこそ見たい」。このように新聞各社はいずれも言論、表現の自由の問題としてこの事件を捉えた。
【サカスト】筆者もこれらの報道を見てはじめてそのような映画が作られていたのか、それならば産経新聞社説が記したように「論議あるからこそ見たい」気になったのである。ただしここで新聞社にもそれぞれの主張があることは【サカスト】読者もお分りのように、産経社説は「不確かな写真を使った記録映画に、国民の税金が使われているとすれば問題である。文化庁には、助成金支出の適否について再検証を求めたい」とまとめているように、言論の自由よりはむしろ反日的映画になぜ助成をしたのか、という視点から問題にしたようだ。
実は、この後いろいろな団体や個人からそれぞれの立ち場からの発言がマスコミを賑わせ、その挙げ句、5月3日、以前の上映予定館以外の映画館で上映が決定されることになった。初日には各映画館の前には警察官が警備のために立ったし、映画館自身も警備員をやとって配置した。このことがまた報道されたことから、一挙に来場者が詰め掛けたという結果になった。私も連休中はとにかく混雑するだろうからと連休あけの7日に出かけてみたが冒頭に述べたような結果になってしまったのである。
そうこうしているうちに上映日も終わり、マスコミもいっさい騒がなくなるとともに私もいつの間にか映画への思いを忘れてしまっていた。ところが7月のはじめ、いつものように書店をひやかしている私の目に1冊の冊子が飛び込んで来た。それが「映画『靖国』上映中止をめぐる大議論(森達也/鈴木邦男/宮台真司他著、(有)創出版社・刊2008年6月23日初版、定価1,050円)」である。
この書を読んでこの映画作成のあらまし、問題の発端から途中の経過、そして各界の論客のコメント、そして映画の内容等を詳細に知ることができた筆者は、あらためてこの映画がいつの日か再上映されれば今度こそはなんとしても見ておこう、と考えたのだがもはや社会の話題には上らなくなったためか、忘れ去られてしまいそうだ。
しかし、この本によっていくつかのことを学んだような気がする。ひとつは、社会が上映を巡って騒いでいる際、「右翼は映画を見ないで騒いでいる」と言われた右翼団体が4月に120人を集めてこの映画を鑑賞しさらに討論会を催している点だ。これは右翼団体のひとつである一水会の木村三浩さんという方の呼び掛けで行われたものだそうだ。この出来事や社会の話題となったことなどが再上映を決定した大きな呼び水にもなったようだ。
さらにこの本の中で、それぞれこの著の供著者でもある鈴木邦男氏(一水会顧問)と宮台真司氏(社会学者)との対談に次のような一節があり考えさせられたので、その一部を転載させていただく。(同書80ページ)
○宮台 元はといえば昨年末に「週刊新潮」が記事を書いたのが発端だけど、それに触発された稲田議員が疑義を呈して以降の一連の展開は、「終わり良ければすべて良し」じゃないけど千載一遇の問題提起になっていて、様々な立ち場の人に学習チャンスを提供しています。「表現の自由」」といった紋切り型の物言いで済ませるべきではない。
○鈴木 右翼にだって表現の自由はあるわけだから批判する権利はあるわけですね。週刊誌や自民党の議員についても同じです。表現の自由をどうするかっていうルール作りの問題だけなんじゃないですかね。お前の意見は不愉快で聞くに堪えないけど、いくらでも言論の場を与えてやろうと。その代わり俺にも言いたいことを言わせろと。
○宮台 その通りですが「表現の自由」という言葉がミスリーディング(筆者注・誤解を与える)です。憲法規定としての「表現の自由」は統治権力に対する命令です。統治権力が侵害してはいけない行為可能性領域を権利と言います。その意味で今回の問題は、表現の自由という「権利の問題」ではなく、実際に表現するチャンスがあるかという「機会の問題」です。人々が「怖いのは嫌だ」「客に迷惑かけられない」という理由で個人的最適化を図った結果、実際に意見表明ができなくなる人が出てくるのです。それが良くないというのは「表現の自由」という自由主義の問題でなく、「誰もが意見を言える」という民主主義の問題です。統治権力の問題でなく、市民社会の問題なんですよ。
○鈴木 自分の意見を述べる機会が保証されていれば、ただ嫌がらせだけでやってるような人はいなくなるし、思想を求めてる人はいい機会だということでどんどん喋るようになる。僕も、かつて街宣車で怒鳴り散らしたことがありますけれど、そういう時はかえって楽なんですよ。誰も聞いていないし、向こうも結構怖がってくれる。そうなるとどうせ言論の場がないんだから実力行使しかない。テロに訴えるしか方法がないと思い込んでしまう人も出てくる。だから言論の場がないと、テロとかに合理的な理由を与えることになるんです。(以下略)
前略、後略の形で申し訳ないがこの部分だけ読んでみても、テロ撲滅などは軍事力では容易に止められないことが分るような気がする。最近若者の間で小林多喜二というプロレタリア文学者の著「蟹工船」がやたらに売れているというニュースも気になる所だ。
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