スカーフ禁止

スカーフ禁止法についてのコラム主筆の姿勢には大賛成。とかく日本の報道はアメリカ寄りだから、なにかと言えばイスラムが悪いに傾きがちだ。今回の北オセチアにおける惨劇も犯人がイスラム原理主義者だということから、また一層イスラムが悪いの声が高まりそうだ。たしかに今回の事件は被害者の大多数が子供であったし、その大半が死亡という惨事に終わったから犯人に対する憎しみは国際社会の問題に拡大した。しかし真相はまだ闇に包まれたままだ。

ロシア当局が犯人の一人を逮捕し、テレビの前で首謀者の名前をしゃべらせてはいるが、あんな芝居は誰でも出来るし、第一この人間が犯人だとの証拠はどこにもない。また、今回の惨劇の原因に現政権のテロ対策の不備があると唱えたイズベスチア紙の編集局長は解任されてしまった。

先進民主主義国の報道機関は政府に都合の悪い記事を自由に書けるはずなのに、この一事を見ても現在のロシアがどんな状況にあるかが分かる。

イスラムの教えの本質は決してテロリズムではない。もちろん、自決権を奪われ、占領者から勝手気ままに振る舞われている民族の中から力による独立を望む声が起こり、それが宗教の力を借りて勢力を拡張しようとする事実は歴史上いくらでもある。宗教の持つ危険性もこんな所にあることは確かだ。特に最近のテロリズムはイスラム原理主義者の起こしたものと言われるが、原理主義という言葉そのものはアメリカの狂信的プロテスタント一派を指した名称なのだから、むしろキリスト教にその語源があると言える。アメリカのファンダメンタリストの連中は未だに人間は神が作ったもので猿から進化したものではないと唱え、学校でダーウィンの進化論を教えた教師を追い出したりするんだからどっちもどっちだ。また、ローマ教会もガリレオの宗教裁判が過ちであったと認めたのはつい最近だったのだから、科学と宗教との争いもなかなか解決の難しい問題でもある。

テレビニュースで見る限り北オセチアの人々は東方教会に属しているようだ。十字架の形や、十字の切り方からそう見える。そうなるとまたここでもイスラム対キリストの対決という図式になるのが恐い。

いずれにせよ宗教とは、あるいは信仰とは、国が口を出す問題ではなく、すぐれて個人の自由な魂の選択にゆだねるべきものだと思う。ユダヤ対アラブの問題も、ユダヤ教であれイスラム教であれ、個人の信仰の上では悲しい出来事であるはずだし、一刻でも早い解決を望んでいるのが個人としての信仰者の立ち場であろう。

フランスのスカーフ禁止法については、今年の2月、私もこの欄で触れたことがある。多くの日本人はフランスはカトリックの国と思っているだろう。確かに現在でもカトリック人口は約80%だからそう考えるのが当然だが、フランス革命以後のフランスは政教分離が厳しく守られている。したがって公教育においては宗教教育は禁止だ。この点ヨーロッパの多くの国が国として宗教を認めているのとは異質だ。だからこそスカーフ禁止もさしたるトラブルなく実施できるのだ。これこそ本当の自由と言えるのかもしれない。つまり宗教は本質的に個人の自由であると考えているからだ。先進国の大部分が、憲法において思想、信条の自由を掲げているのもフランス革命の影響からだ。

さらに、宗教の力はむしろ教育でさえ太刀打ちできない例をポーランドに見ることが出来る。第二次世界大戦後、この国は社会主義国家となりソビエトの強い影響下にあった。ご承知のとおりポーランドは国民の95%がカトリック、現教皇ヨハネ・パウロ2世もポーランド人だ。日本にもポーランド人神父の数は少なくない。あるとき私は50歳前の親しいポーランド人神父と飲みながらこんなことを尋ねてみた。神父さんの子供の頃は学校でカトリックのことをどう教えていましたか。彼いわく、その頃の学校の先生は宗教とは誤ったもので、神様などいるはずはないと教えていたよ、けれども家へ帰ればどこの家庭でも、先生は嘘を教えているのだからほっておきなさい、とお母さんから言われていた、と。

ところで、最近はフランスでもポーランドでも若者の教会離れは深刻な問題になっているそうだ。文明の進歩とは宗教者のそれよりも進み方が早いのかもしれない。さて、この傾向は人類にとっては吉と出るか、それとも凶と出るのだろうか?

2004年9月8日(水)寄稿

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