日本の誤解「マルクス主義」 人間を支配する「リズム」

広島、長崎は本当にしょうがなかったのか

岸田 徹 【岸コラ】
2008年8月21日(木)

広島は8月6日、長崎は8月9日それぞれ種類の違う原爆が落とされた。日本の防衛庁は防衛省に昇格した。初代防衛大臣は防衛庁長官だった久間章生氏、長崎2区の衆議院議員だ。昇格は2007年正月のことだったが、久間防衛相の命は短く半年で辞任に追い込まれた。広島、長崎への原爆投下は「しょうがない」と発言したことが批判を呼び、このままでは、年金記録漏れ問題を抱えた安倍政権は衆議院選挙を戦えない状況で、混乱回避の辞任だった。

久間氏の発言は、千葉県柏市の麗沢大学で行われた講演で出たものだ。発言の趣旨は次の通りだった。

日本が負けるとわかっているのに、あえて原子爆弾を広島と長崎に落とした。長崎に落とすことによって、そこまでやったら日本も降参するだろう、そうしたらソ連の参戦を止めることが出来るということだったが、8月9日にはソ連が満州その他に侵略を始めた。幸いに戦争が8月15日に終わったから、北海道は占領されずに済んだが、間違うと北海道までソ連にとられてしまうところだった。その当時はとられて何もする方法もなかった。原爆も落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、『あれで戦争が終わったんだ』という頭の整理でしょうがないなと思っているし、それに対してアメリカを恨むつもりもない。勝ち戦と分かっているときに原爆まで使う必要があったのかという思いはいまでもしている。国際情勢や占領状態からすると、そういうことも選択としてはあり得るんだな、ということを頭に入れながら考えないといけない。(読売新聞)

原爆投下を「しょうがない」と発言した重要人物は久間氏だけではない。第二次世界大戦に直接かかわった昭和天皇は、戦後30年たった記者会見で「原爆の投下は遺憾であり、広島市民には気の毒ではあるが、戦争中のことであり、やむを得ないことと思っています」(読売新聞)と語ったことがある。

今では、広島、長崎に投下された原爆は戦争終結を早め、犠牲者の数をとどめるために仕方のない行為だったとする世論形成が日本でもアメリカでも行われている。さらに久間氏が指摘するソ連の参戦を阻止した効果があったとする見方も有力だ。日本に降伏を迫ったポツダム宣言起案は、アメリカのトルーマン大統領とイギリスのチャーチル首相、それにソ連のスターリン共産党書記長の間で話し合いが始まった。ところが、実際の宣言には米トルーマン、英チャーチルに中国の蒋介石総統が署名しソ連のスターリンの署名はなかった。実は、会談の始まった7月17日の前日、アメリカは世界初の原爆実験に成功していた。アメリカはこの時点で、ソ連の参戦なしに原爆により終戦に持ち込めると踏んだというのが史実になりつつある。このことからすれば、原爆がソ連の日本本土侵略を防いだと言えるかもしれない。

そうなると、久間氏の発言は的を得たものになるのだが、そのまま納得することができない部分がある。それは、久間氏も指摘する通り、日本が負けると分かっているのに何でアメリカは広島と長崎の2ヶ所に原爆を落としたのかだ。勝敗がつかないから最終兵器の原爆を落としたというのなら理屈にかなう部分がある。あるいは、終戦を早めるために止めの1発を撃ち込んだというのなら分からなくもない。負けるのは時間の問題だったのに、なぜ2発の原爆を続けて落としたのか。

原爆には、3つの恐ろしい破壊力がある。ひとつは熱による破壊で、瞬時のうちに超高温の巨大な火の玉を発生させ、露出した人間の肌は瞬間的に大やけどに見舞われる。地上にある燃えるものは一瞬のうちに炭になる。大きな山火事のような火の嵐が焦熱地獄をつくり、火の玉内部の高温気体が急膨張することにより衝撃波が起こる。これが外に一挙に広がり強力な暴風を生み出す。この間たったの1秒だ。

この風が空から降ってきたかと思うと地上で跳ね返され風が重なり合う。その後、火の玉の急上昇で強烈な上昇気流が発生し、この吹き戻しで爆心地点の風速は100メートル/秒に達する。自分の体のコントロールは全く効かない、まさに地獄だ。広島では爆心地から600メートル以内が瞬時のうちに2千度になり暴風が駆け抜けた。14万人がほぼ即死状態だった。

原爆の破壊力はこれで終わらない。瞬時に襲う超高熱と爆風の後は、放射線が襲ってくる。放射線は原爆のエネルギーの15%を占め、爆発後1分以内に5%が発散され生体に入り込む。残りの10%は火の玉の急上昇からできたキノコ雲から地上に降り立つ。これが「死の灰」だ。死の灰は広い範囲に長い時間降り続けるため人体への影響は計り知れない。

原爆製造をアメリカ政府に働きかけたのはアインシュタインだと言われている。平和主義とユダヤ人国家建設運動のシオニズムを展開していたドイツ生まれのアインシュタインは、ヒトラーがドイツの政権を取るとアメリカに移住し、ハンガリーから渡ってきた亡命科学者数人とともにドイツの原爆製造の危険性を時のフランクリン・ルーズベルト大統領に手紙で通告した(1939年)。これがもとでアメリカは核開発を開始し、陸軍に原子爆弾開発計画を行う特殊管区ができた(1942年6月)。マンハッタン計画だ。

マンハッタン計画を指揮したのはアメリカの物理学者オッペンハイマーだったが、彼の指導力と組織力でアメリカは世界初の原子爆弾の開発に成功した。完成した原爆は2種類あった。それぞれ素材が違う。ひとつは天然ウランから抽出するウラン235を素に造られた。ウラン235は天然ウランの中に0.7%しか含まれず、残りの99.3%はウラン238。化学構造が似ているウラン235とウラン238を分離するのは高い技術が必要だ。わずかな重量の差を利用して分離される。

もう一つはプルトニウム239を素に造られた。プルトニウム239は、ウラン238から作られるが、ウラン238の原子核が中性子の衝撃を受けて変化するとウラン239ができ、その原子核を破壊してできた物質の変質がプルトニウム239だ。つまり、プルトニウム239は天然ウランの分離技術が完成していないとできない。ウラン235で造るより原爆を小型化できるが製造過程は複雑だ。

原爆はこの2つのうちのどちらか一つによって製造できる。それぞれの素材は核分裂を起こし、その時放出される2、3個の中性子がさらに次の核分裂を引き起こし、核分裂の連鎖反応が大量のエネルギーを放出することになる。その時間は瞬きより短い100万分の1秒だ。

広島に投下された原爆はウラン235型で、長崎に落とされたのはプルトニウム239型だ。ウラン235型は8月6日広島に、プルトニウム239型は3日後の8月9日長崎に落とされた。同盟国のドイツは5月10日にすでに無条件降伏していた。ポツダム宣言は7月26日に発表され日本にも通知されている。

原爆の悲惨さは唯一の被爆国として日本が語り継がなくてはならないが、同様の悲劇は東京でも起きていた。3月10日に起きた東京大空襲だ。通常兵器による史上最大の戦災と言われ、警視庁の調査でも8万4千人が死亡した。実数は10万人を超えると想像されている。四方を焼き尽くし逃げられない状況にした後中心地に大量の爆弾を投下した。逃げ場を失った住民は焦土と化した東京で実にみじめな死に方をした。

第二次世界大戦の日本側の戦没者は310万人だと厚生省がまとめている(1977年)。このうち軍人などの軍関係者が230万人で、残りの民間人は80万人だ。民間人のうち内地で死亡した人は50万人、満州などの外地で死亡した人が30万人だ。内地で死亡した人たちの50万人には原爆の犠牲者が含まれる。広島の犠牲者は14万人、長崎の犠牲者は7万人と言われている。東京大空襲の犠牲者10万人は原爆の被害者に匹敵する数だ。

東京大空襲の後、原爆投下の8月までの間、アメリカ軍は名古屋、大阪、神戸、浜松、四日市、鹿児島と空襲を広げ、7月下旬には上空からビラをまき次の空襲を予告していた。軍事的にも意味を持つ日本の主要都市に次々にアメリカ軍の飛行機がやってきて、好きなように爆弾を落として去っていく。これに対し日本軍は迎撃する軍人も兵器もないばかりか、兵器を作る財力も鉄も底をついていた。日本の制空権はすでにアメリカ軍にあったと言える。アメリカはこの空襲で日本に勝利したと見ることもできるが、その後に起こる原爆投下という事実を考えると、アメリカ軍の一連の空襲は、日本のどんな都市でもアメリカ軍機が安全に航行できることを確かめていたのではないかとも思えるものだ。その目的は、原爆投下のために飛行するアメリカ軍機の安全性を確認するためだと考えられる。

なぜ、アメリカ軍は日本上空の安全を確認したかと言えば、無事に原爆投下を実行しアメリカ軍はひとりの犠牲も出さずに帰還するところを証明したかったのではないかというのが私の推測だ。

証明したかった相手は他ならぬソ連だ。核開発の絶対的な優位性をソ連に誇示するのが原爆投下の目的だったのではないか。勝利を確信していたアメリカの関心はすでに終戦後にあったはずで、ソ連との覇権争いをいかに優位に進めるかが最大の関心事だったに違いない。

長崎に落とした原爆は広島に落とした後のとどめではなく、当時理論的に考えられていた2種類の原爆製造を完璧に実用化できているという核開発での圧倒的な優位性をアメリカはソ連に対し誇示したかったと考えられる。つまり、最初からアメリカは2つの種類の原爆を日本に落とすつもりだったのではないか。それは、戦争終結のためではなく、生体実験にも似たデモンストレーションのために行われたもので、これは戦争が終わってからでは行えないものだった。いつでも戦争を終わらせることができる状況を一方では作り、終戦を確信してから戦争状態の間に原爆の実用実験をしたと考えると多くの疑問が解ける。

もし、原爆が戦争を早期に終結できる道具になりえるのなら、第二次世界大戦後もアメリカがかかわった多くの戦争で原爆投下が行われたはずだ。特にアメリカが勝てなかった朝鮮戦争やベトナム戦争では有益な武器になったに違いない。しかし、現実には広島、長崎に原爆が投下されてから63年間、アメリカも世界のいかなる国も一度だって原爆を使用していない。朝鮮戦争では苦戦した国連軍総司令官のマッカーサーが原爆使用の承認をトルーマン大統領に願い出たと言うがかなわなかった。トルーマン自身も原爆の使用をちらつかせては見たものの実際には使わなかった。

なぜ、アメリカは日本以外の戦争に原爆を使用しないのか。この答も、広島、長崎の原爆投下時にすでに出ていたと想像できる。原爆は相手が持ってしまったら使えないのだ。朝鮮戦争は1950年6月に勃発したが、その前年の8月、ソ連は原爆実験に成功していた。戦争はやられたらやり返す戦いだ。万一アメリカが朝鮮戦争やベトナム戦争で原爆を使用したら、ソ連が原爆で反撃してくるのは当然考えなくてはならないことだ。原爆の破壊力を知っているアメリカは、反撃で原爆を受ける立場を想像したら、とても使えるものではない。

この論理は、原爆開発時にすでに核開発研究者たちによってアメリカ軍内で確立されていたに違いない。つまり、広島、長崎の原爆投下は、ソ連が原爆を持つまでの間に行われなくてはならない運命だった。もし、日本の同盟国ドイツが広島、長崎以前に原爆実験に成功していたら、アメリカの原爆投下はなかったはずだ。

アメリカはドイツの核開発の脅威から核開発を始めた。本来ならドイツが降伏した時点で核開発を中止してもよかったものだ。ところが、核開発は始まってしまうとその技術を開発部署内に厳重に留めておかなくてはならない。アメリカの技術がソ連に奪われれば、今度はソ連が核を使用し、その後アメリカの核実験成功までの間、ソ連が自由に核を使用すことになる。つまり、原爆は一番初めに製造したところだけが使える兵器だということが最初っから分かっていたのではないか。もう少し言えば、最初に開発してしまった国は使わなくてはならない運命にあったと言える。広島、長崎はその犠牲になった訳で、戦争終結を早めるために犠牲になった訳ではない。

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参考資料:

Microsoftエンカルタ総合大百科2008:「原爆」「オッペンハイマー」「アインシュタイン」

自民・久間氏が2年ぶり平和記念式典出席 発言への抗議を批判/長崎 [2008年8月9日 読売新聞 西部夕刊 S2社]

「しょうがない」から1年 久間氏が長崎原爆忌の式典に出席の意向 [2008年7月20日 読売新聞 大阪朝刊 2社]

久間元防衛相が改めて謝罪 原爆発言、長崎で会見 [2007年9月14日 読売新聞 西部朝刊 西2社]

[ほのぼの記者から]8・6に戻って考える=京都 [2007年8月6日 読売新聞 大阪朝刊 京セ2]

[社説]ヒロシマ 原爆の罪と核抑止力のジレンマ [2007年8月6日 読売新聞 東京朝刊 三面]

長崎平和式典、久間氏は欠席 [2007年8月3日 読売新聞 西部夕刊 SスA]

久間防衛相辞任 「原爆投下、何だったのか」 改めて問いかけ [2007年7月4日 読売新聞 東京朝刊 政治]

久間防衛相辞任 会見でも「しょうがない」連発 初代大臣、半年足らず [2007年7月4日 読売新聞 東京朝刊 社会]

原爆発言 久間防衛相が陳謝、近く与党に真意説明 野党は罷免要求 [2007年7月2日 読売新聞 東京朝刊 二面]

久間防衛相「原爆で戦争終わった。しょうがない」 [2007年7月1日 読売新聞 東京朝刊 二面]

[核の脅威]日本の抑止力(2)核開発 技術あるが…(連載) [2007年3月21日 読売新聞 東京朝刊 一面]

[核の脅威]日本の抑止力(1)「米の傘」本当に有効か(連載)=訂正あり [2007年3月20日 読売新聞 東京朝刊 一面]

核戦争は気候にも悪影響 広島型100発で気温1.25度低下 [2006年12月17日 読売新聞 東京朝刊 教育セ]

北朝鮮・核兵器の仕組みは? 弾頭に適した爆縮型爆弾 高度な技術、検証必要 [2006年10月15日 読売新聞 東京朝刊 教育セ]

[検証・戦争責任]第2部(12)終戦工作 政府、最後まで紛糾(連載) [2006年7月4日 読売新聞 東京朝刊 朝特D]

[戦後60年 広島・長崎](上)「天使」が落とした悲劇(連載) [2005年8月4日 読売新聞 東京朝刊 社会]

[なんでもクエスチョン]核兵器の処分ってどうするの? [2000年5月22日 読売新聞 東京夕刊 夕一面]

〈解〉原爆と水爆 [1999年3月11日 読売新聞 東京朝刊 気流]

[20世紀どんな時代だったのか](245)米ソ核開発競争=1(連載) [1999年3月11日 読売新聞 東京朝刊 気流]

揺れ動く民族 世紀の転換点 内戦、地域紛争今なお=特集 [1999年1月3日 読売新聞 東京朝刊 朝特B]

米3大週刊誌が戦後50年特集 「原爆投下」評価さまざま [1995年8月15日 読売新聞 大阪夕刊 国際1]

[核軍縮新時代]NPT延長会議を前に(3)非加盟貫く「印・パ」(連載) [1995年4月7日 読売新聞 東京朝刊 外電B]

[今日のノート]不意は襲う [1993年12月21日 読売新聞 大阪朝刊 気流]

参考サイト:

原爆の教訓と韓国人被爆者 (Jan Jan News 2008年8月11日)

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