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岸田 徹 【岸コラ】 |
関東大震災の被害を受けた会社は、手形の期限が来ても支払のめどが立たない状況だった。そこで、政府は支払期限が9月1日から30日までの債務については期限を30日延長する措置をとった。こういう緊急時の支払い猶予を金融用語で「モラトリアム」と呼んでいる。
かつて、「モラトリアム人間」と呼ばれた(1978年ごろ)人種が日本にいたが、借金の返済を勘弁してもらっている人たちのことを言うわけではない。大人になることを拒んでいる青年をこう呼んだ。由来は心理学からきているものだ。フロイトのもとで学んだユダヤ系ドイツ人の精神分析学者エリクソンが、ナチスの迫害でアメリカに亡命し、そこで「生涯人格発達論」を生み出した。その中に、青年期に自己を発見するためにいろいろと試行錯誤をすることをモラトリアムと呼んだ。青年から大人になる時期に、しっかりした自分を完成させなくてはいけないのだが、自分とは何かの答えが見いだせない状態を世間に許してもらう時期とでも言おうか。とっくに支払時期が来ているのだけれど、緊急時なので返済日をちょっとずらしてほしいとするような状況だ。
英語ではよく「アイデンティティ(identity)」の形成とか言っている時期の青年期だが、英語を学ぶ日本人にとってアイデンティティはなかなか意味が分からない単語だ。日本語にすると「自我同一性」などとなりもっと分からない。分からない理由は、日本人にとって自我は自分で同一にに決まっているからだ。
ところが、エリクソンにとっても英語を話す人たちにとっても「アイデンティティ」は自分の存在を自分自身ではっきり認識することと、なぜ自分が社会に存在するのか、その意義をしっかりとらえ、自分の才能や努力がどのように社会に貢献するかを認識するのにどうしても必要な概念で、その概念を表す重要な言葉だ。
そのアイデンティティの発見のために自分でいろいろとやってみる。アルバイトをやってみたり、研究論文を書き上げてみたり、祈りを深めてみたり、熱烈な恋愛をして世間を棄ててみたり、一人だけで旅行をしてみたりとその方法は様々だ。たいていは、アルバイト口がなかったり、働いてもなかなか役に立たなかったり、論文を書けば穴ばかりを指摘されたり、恋愛をしても失恋したりで、厳しい世間を体験するのだが、その中から這い上がり、自分自身を発見し、モラトリアムを脱出して成人することになる。
ところが、エリクソンの言うモラトリアム期にアイデンティティがなかなか見つからず、その試行錯誤の時期に試行錯誤の暴走や混乱があって、すべての行動が空回りしてしまう場合がある。ついには社会に同化できなくなり、反社会的な考え方に襲われる。そうなると非行や犯罪が起こるというのが犯罪心理学の中の一つの学説だ。
犯罪に至るまでの経緯は自己の特性と社会環境の背景が複雑に絡み合っているので、一方的な観点から画一的に法則化することはできない。どんな青年でもエリクソンの人格発達論どおりに発達の過程を踏むとは限らないが、オウム真理教による地下鉄サリン事件(1995年)やその前の時代に起きた過激派による三菱重工本社ビル爆破事件(1974年)などの無差別殺人を考えると、若者がエリクソンの言うモラトリアム期において反社会的に陥ったのではないかと想像してしまう。
日本では、戦後の高度成長期以降の自分本位の文化やアメリカ追随主義の国家建設の青写真がまったくない社会が問題視されている。個性尊重の教育はお題目だけで、自己の個性とは何かを探求させる時間と環境は社会によって整備されているとはとても言えない。自分が社会のどの面で貢献できるかを知るためには、世界の流れと国家の姿勢が示されることで、企業や市民社会が活動計画を作れるものだが、政官財一体の国家形成がこのような国家の青写真を市民に示さずに国家運営が行われてきてしまった。改革も足踏みしているので、国家の運営方法はいまだに変わらない。
この間自由という旗印だけが独走し、学校では規制より自由が重んじられる傾向になった。エリクソンの言うモラトリアム期は、日本ではいわば見習い期間。試行錯誤の期間なので、何があっても大目に見て、人生勉強も大いにやるべしというのが高度成長期前には社会慣習として確立されていた。学生服はその期間中である身分証明書のようなもので、なんでもやってみろという経済的なバックアップは学生割引だった。これが、自由の象徴として学生服が姿を消し始め、制服はあっても私服と区別がつかないデザインが主流。学割はあってもシルバーパスの方が割引率が高い現在では、モラトリアムは社会からまったく無視されている。
無視は、社会のシステムだけではなく、われわれ大人もしている。子供がたばこを吸ったり飲酒をしたり、電車の席で股を大きく広げて座っていたり、夜道で点灯せずに自転車を縦列してこいでいても、公衆浴場で他人の石鹸を無断で使用しても、スパーで万引きの現場を見ても、誰も何も注意しない。子供がキレたらどうしよという恐怖感から無視を装うのだが、モラトリアムの子供たちは、試行錯誤の一環で常識や法律を逸脱したら自分はどうなるのかを試している場合が多い。そこで注意されることによって社会の壁や幅を知るようになり、ひいては社会の中の自分の地位を知るようになる。この時期が機能しないと、社会を知らない子供たちが大人の顔をして社会に出てくることになる。すると、まともに社会の非情を浴びせられる事になり、挫折感はとても耐えられないものになる。
今月8日の日曜日、秋葉原の歩行者天国にトラックを突っ込んだあと持っていたナイフで通行人を次々に刺し7人を死亡させ10人に重軽傷を負わせた青年(25歳)の事件は、検察側の取り調べで裁判が行われるので、入ってくる情報は一方的なものが多い。裁判では弁護側の意見も聞かれるだろうが、それも裁判で刑を確定するための論拠だ。裁判で本人の心情が明らかになることはまずない。そのため、この犯行がモラトリアム期の暴走だったかどうかは恐らく永遠に分からない。
また、この事件が、現代の日本の青年を象徴するものだとは決して言えない。犯行は非情だが、その犠牲者をとっさに救護した通行人は多く、みな必死だったとの報道がある。救護に当たった人たちにも、同世代の人がいたわけで、この事件の原因を世代論で片付けるわけにはいかない。
再発防止のために、若者世代を規制することはモラトリアム期を再び社会が無視する結果となり、決して有効ではない。歩行者天国をやめたり、犯行に使われた同型ナイフの販売をやめても事件の根本的な再発防止策にはもちろんならない。
無差別殺人事件は、特定の人に恨みや憎しみがあってその対象に危害を及ぼすものではないため、犯行の動機をどのようにも解釈できる。裁判でも刑を確定させるために、犯行動機をかつての判例に沿ったものに持って行きがちだ。このため、犯罪の原因がどこにあったのかを究明することは非常に難しい。できなければ、これは単なる殺人犯罪で刑が確定して終わってしまう。
明らかなことは、ただ一つ。犯行に及んだ青年の人生は楽しいものではなかったということだ。楽しくない人生を送っている人がいれば、7人もの命が犠牲になる恐ろしい決断と実行がなされる可能性があるという事実だ。事件の根本的な対策は、楽しい人生を送れる社会の仕組み作りだ。今住んでいる社会の規範や常識では、楽しいか楽しくないかは個人の問題で、他人が楽しい人生を送ることに自分がいかに貢献できるかを発想する機会はまったくない。本来人間は、他人の幸せに役立つと嬉しくなる性分で、それがいつしか自分の幸せにもかえってくるもの。楽しさを追求する社会の実現がなぜできないのか。それをやると、富を得ている人の幸せが崩れてしまうからではないのか。
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参考資料:
Microsoftエンカルタ総合大百科2008:「犯罪」「犯罪心理学」「新新宗教」「エリクソン」「モラトリアム」「自我同一性」
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