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岸田 徹 【岸コラ】 |
かすかな記憶だが、私が幼稚園のとき(50年近く前か)、母の日には「おかあさんありがとう」と印刷されたリボンがついた赤いカーネーションの造花が配られた。造花の裏には安全ピンが付いていて全員が胸に着けるのだ。その中に、赤ではなく白いカーネーションを着けた子供が2〜3人いた。
幼稚園の先生はこう言った。「赤いカーネーションを着けているお友達は、お母さんにいつもありがとうと感謝の言葉を言いましょう。白いカーネーションを着けているお友達は、お母さんはいなくても、思い出してありがとうと言いましょう」
それ以上のことは覚えていないが、小学校に上がってからは、白いカーネーションは見ることがなくなった。
「僕はカーネーションを赤と白に分けるという発想が嫌いだった。子どものころ、二つに分けるのはすごく残酷だと思った」とつぶやいたのは橋本竜太郎首相だった。参議院選挙の敗北で責任を取って辞めた年(1998年)に、まだ在任中の母の日に母の日の思い出を新聞記者に聞かれた。答えたくないと言った後のつぶやきだった。
橋本さんのお母さんである正(まさ)さんは日本ユニセフで活躍された方だが、実母ではなく継母だ。実母は物心が付く前に亡くなっている。7歳の時に正さんが継母としてやってきたがなかなか受け入れられなかったという。しかし、戦争で空襲警報が鳴ったとき、「早く逃げなさい」とお尻を叩かれたときにお母さんだと感じたらしい。
橋本さんにとってみれば、母の日の思い出は、実母に白いカーネーションを思い、継母に赤いカーネーションを思うという複雑なものがあったのだろう。首相を辞めた年の暮に正さんは10年の闘病生活後に亡くなった。記者が質問をしたときには、橋本さんが熱心に正さんを見舞いに行っていたころだった。構造改革の中で「冷徹な合理主義者」だった橋本さんは多くの敵を作り孤独だった。この見舞いのときが最高の精神安定剤だったのではないかと言われている。
母の日は日頃の母の愛に感謝する日だ。子供にとってもっとも身近で自分を守ってくれるお母さんに感謝するのはいいが、どうして、母親のいる子供は赤いカーネーションで、いない子供は白いカーネーションなのか。橋本さんばかりでなく、多くの日本人がその区別に残酷なものを感じたに違いない。なぜなのか。さらに、どうしてその区別が今ではなくなってしまったのか。
母の日を制度として誕生させたのはアメリカだ。1907年にアンナ・ジャービスという女性が、自分の母親の命日に追悼会を開き、母親が好きだった白いカーネーションを捧げ、式の参列者に白いカーネーションを一輪ずつ渡したのが始まりだとされている。この追悼会が噂になり、百貨店経営者のジョン・ワナメーカーがシアトルの百貨店で「母の日」の催しをやったところ話題を呼んだ。そこで、アンナが母親のいる人は赤いカーネーションを、いない人は白いカーネーションをと提唱し、運動が広がった。それがウィルソン大統領にまで伝わり、大統領の提案で1914年に祝日となった。それが日本にも伝わり、戦後定着したというのが言われていることだ。
なるほど、ここで分かるのは、母親に感謝したいという気持がわいて、実際に何か会でも開きたいと思うのは、思う子供が大人になってからだと考える方が合理的だということだ。子供にお母さんに感謝しろと教えるのはいい事かもしれないが、子供にしてみれば母の日にカーネーションを贈るのは感謝の気持が湧き出るというより、年中行事をこなす部類に入るはず。ということは、自発的に母に感謝したいと思うときはすでに母はこの世にはいないという訳だ。
アンナ・ジャービスという女性は日本でも母の日を創設したことでは有名だが、母の日を作りましょうと言って運動した結果祝日になったという単純なストーリーではない。
彼女の母親は、熱心なクリスチャン。メソジスト派だ。メソジスト派は、プロテスタントの最大派閥で元はといえば英国国教会から生まれた。アメリカの独立戦争以前にイギリスから流れてきた熱心な宣教師の活動でアメリカにも根付いた宗派だ。メソジストというのは、メソッド(方法)のistだ。つまり、信仰の方法を忠実に守る人たちで非常に熱心。
アンナ・ジャービスの母親は独立戦争時に破壊された地域で熱心に布教すると同時に衛生面での復興や兵士の介護に全力を挙げた人だった。当然一人ではできることでなく、彼女はいわば強き母の会のリーダーで、アメリカ建国に市民レベルで活躍した功績がある。子供は11人産んだが、成人できた子供はたった4人だった。アンナはそのうちの9番目の子供で、母親が亡くなったときには、41歳だった。
白いカーネーションは、アンナの母親が好きだったということだが、なんで好きだったかは理由がありそう。イエス・キリストが十字架にかけられた日に、母マリアが流した涙の跡にカーネーションが一輪咲いたと言われていて、クリスチャンの間では白いカーネーションが十字架にかけられる前のイエスとマリアを象徴し、赤いカーネーションが復活したキリストを象徴しているとされている。つまり、白いカーネーションはマリアの母性愛を感じさせるものといえる。
これが日本に伝わったのが大正4年(1915年)。青山学院の教授だったアレクサンダー女史によって紹介され、教会が中心になって広まっていった。なんで青山学院の教授が紹介したかというと、青山学院、関西学院、東洋英和女学院などは、メソジスト教会が作った学校だからだ。
戦後になるとこの運動が盛んになった。戦争で夫を失った未亡人会が力を発揮したのだ。未亡人会や母子寮の授産所で赤と白のカーネーションをどんどん作り、運動の活動資金にしようとしたのだ。私の幼稚園時代のかすかな記憶は、恐らくこの花だ。
ところが、母がいるいないでカーネーションの色を区別するのは童心を傷つけるという声が上がった。さらに義母の場合はどちらを着けたらいいのか分からないという不満もあって、未亡人会は赤一色に統一してしまった。これが、今では白いカーネーションがない理由だ。アメリカの習慣が単純に日本に来たと思われがちだが、中身は随分違う。母の日にはむしろ白いカーネーションの方が自然なのだ。赤いカーネーションはどちらかというと感謝の押し付けで、バックでは花屋やデパートなどの商業主義が押していた。
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参考資料:
Microsoftエンカルタ総合大百科2005:「メソジスト」
【葬送】橋本前首相と橋本高知県知事の母 橋本正さん [1998年12月11日 産経新聞東京朝刊]
参考サイト:
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